電話網には、紙の地図があった
1970年代の米国長距離電話網は、利用者から見れば番号を押すと遠くの相手につながる巨大なブラックボックスだった。
その内部では、都市、交換局、トールセンター、オペレーター、試験設備、国際回線、WATS、TWXなどが、多数のコードと経路規則によって結ばれていた。
AT&T Long Lines Traffic Routing Guideは、その経路運用を支える内部資料だった。
The History of Phone Phreakingには、1975年版と1977年版のスキャンが保存されている。
そこには、
- principal city
- operator code
- NPA code
- system code
- toll center code
- special service code
- plant test code
- switching office
- homing
- international code
- TWX routing
などが並ぶ。
電話網は、ケーブルだけで作られていたのではない。番号と表によって、どこへ流れるべきかを決められていた。
AT&T Long Linesという網
AT&T Long Linesは、Bell Systemの長距離通信を担った部門だった。
地域の加入者線を越え、都市間・州間・国際の通話を、長距離トランクと交換拠点で結ぶ。
利用者が電話番号として見ていたものの背後には、階層的な経路選択があった。
加入者番号
↓
市内交換局
↓
トールセンター
↓
長距離トランク
↓
別地域の交換局
↓
相手の加入者線
Traffic Routing Guideは、この流れを運用者の側から見るための資料だった。
地理上の都市は、電話網ではNPA、交換局、コード、homing関係として記述される。
番号で描かれた地理
通常の地図は、土地の距離と形を示す。
電話網の地図は、接続関係と経路優先順位を示す。
都市Aと都市Bが近い
≠
電話網上で同じ経路を通る
物理的な距離だけでなく、交換局の階層、回線容量、境界、運用規則によって、通話の経路は決まる。
Traffic Routing Guideに並ぶコードは、単なる略号ではない。
一つ一つが、
- どの局がどの局へ従属するか
- どの経路を優先するか
- 特別サービスをどこへ渡すか
- 国際番号をどう解釈するか
- 障害や混雑時にどこへ迂回するか
という網の地形を表していた。
紙面に並ぶ数字は、電話網の都市名、道路名、分岐点だった。
phreakerにとっての秘密の地図
phreakerは、受話器から聞こえる音だけでなく、電話会社の技術資料、廃棄文書、雑誌記事、交換局情報を集めた。
Traffic Routing Guideは、その中でも特に価値の高い資料だった。
The History of Phone Phreakingは、1970年代に通話経路へ関心を持つphone phreakなら、この種の情報を非常に欲しがっただろうと説明している。
理由は明快である。
受話器から得た観測
+
内部資料にあるコードと経路
=
網の挙動を照合できる
音だけで推測していた構造へ、名前と番号を与えられる。
未知の交換局が、地図上の場所になる。
偶然見つけた試験番号が、どの設備に属するかを推測できる。
内部文書が外へ出たとき
Traffic Routing Guideは一般向けの電話帳ではない。
運用者が仕事のために使う資料だった。
しかし紙の文書は、複写、持ち出し、廃棄、譲渡、スキャンによって、発行者の統制から離れる。
AT&T内部資料
↓
社員・元社員・収集者
↓
phone phreakの手元
↓
コピー
↓
スキャンとOCR
↓
Webアーカイブ
現在、1975年版・1977年版の相当部分は、歴史資料として通常のWebから閲覧できる。
秘密だった情報が、時代を経てインフラ史の一次資料へ変わった。
文書の危険性は内容だけで決まらない。網が現役か、コードが有効か、誰が利用できるかによって変わる。
1975年版と1977年版
保存されている1977年版は、主として1975年版から変更されたページを含み、未変更ページが欠ける場合がある。
完全な像を得るには、両版を合わせて読む必要がある。
これは更新型運用文書の特徴を示す。
一冊の完成した地図
ではなく
基準版
+
差し替えページ
+
現場での更新
電話網は固定した機械ではない。
交換局の追加、コードの変更、国際接続、サービスの拡張に合わせて、地図も変わり続けた。
地図と実物は一致しない
内部資料があっても、電話網のすべてが分かるわけではない。
- 文書の版が古い
- 現場で変更されている
- ページが欠けている
- 例外運用がある
- 障害時の迂回がある
- 記載されない保守情報がある
設計図と、現実に動いている網は一致しない。
phreakerが受話器から得る観測は、この差を見つける役割を持った。
文書は網の意図を示し、音は網の現在を示した。
現代のクラウド地図との接続
現在の巨大システムにも、内部の地図がある。
- DNSゾーン
- BGP経路
- クラウドのリージョンとavailability zone
- サービス依存関係
- API gateway
- 権限表
- 障害時のfailover
利用者は表面のURLやアプリ名しか見ないが、運営者は内部の経路表を持つ。
Traffic Routing Guideは、巨大ネットワークを運用するために必要な「内部地理」の古い標本である。
この標本が示すもの
- 電話番号は、利用者の住所であると同時に経路制御の入口である
- 巨大ネットワークは、物理設備だけでなく分類表とコード表によって動く
- 内部文書は、観測だけでは見えない構造へ名前を与える
- 文書の版と現実の網には差がある
- 秘密資料は、時代を経て歴史資料へ変わり得る
- ネットワークを理解するには、地理、論理、運用の三つの地図が必要になる
AT&T Long Lines Traffic Routing Guideは、電話網を外から眺めた地図ではない。網自身が、自分の中を通話がどう移動するかを書いた地図だった。
関連標本
- 電話交換機とPBX
- phreakingと最初の巨大ブラックボックス
- 2600 Hz
- AT&T Long Lines Distance Dialing Reference Guide
- Notes on Distance Dialing
- NPA
- toll center
- homing
- routing table